無冠帝エッセイを、今日から綴らせていただくことになった。
はてさて、どんなふうに無冠帝の世界観を描いていこうかと、拙い筆と頭を捻りつつ、書斎で無冠帝の一杯をかたむけている。
実は、今にして思えば、不思議な執筆の予感があった。
僕が初めて「無冠帝」の純米吟醸を味わっていた2008年12月10日の夜、我が家のテレビは「ノーベル賞授賞式」のもようを報じていた。
四人もの日本人が授賞した今回の快挙は、不況や社会問題で暗澹としている日本にとって一条の光になったとレポーターは吹聴していた。
「まったく……世間の不安をあおるニュースばかりと思いきや、一転して、お祭りムードではしゃぎたてる。マスコミってのは下げたり上げたり、忙しいこったな」
独りごちた私は、晩餐会の賑わいの中、はにかむように微笑をこぼしている一人の日本人受賞者に目をとめた。
その人は授賞が決まって以来、マスコミの取材攻勢をモノともせず、普段の居姿のまま対応し、言いよどむことなくイエス・ノーを明言していた。脚光を浴びるのが苦手で、奢り昂ぶることなく、生涯、学究の徒である生き方を誇りにしている人だろうと僕は感じた。
日本人がこれほどまでにノーベル賞を席巻する理由は何かと、海外メディアも問うたが、ひたむきに、ただ一つの道を、脇目も振らず歩んできた結果と、四人の受賞者は口を揃えていた。
世界最高の栄誉であるノーベル賞を受けながら、周囲に媚びることも、おもねることもなく、泰然自若として一つのムードを醸し出す。
「これぞ、無冠帝な人だ」
僕は、凛とした無冠帝のラベルにつぶやいていた。
日本人のDNAを、僕はあの人たちに、あらためて教えてもらった気がした。
地道にコツコツと頑張り、自分を磨き、世のため人のために生きて、その末に、キラリと輝く自分だけの宝物を手に入れる。
今の景気、政治、経済、教育、環境……夥しい問題の発端は、そんな“日本人らしさ”を僕たちみんながどこかに置き忘れてしまったことじゃないだろうか。
この日本人らしさの一つに、僕は「無冠帝イズム」があると思うのだ。
そして無冠帝イズムの根本は“大人としての了見”であり、「お天とう様に、恥ずかしくない生き方」だろう。
僕はこのエッセイで、人であれ、物であれ、自分の肌で感じて取ってきた無冠帝な存在を綴っていきたい。目には見えなくとも、日本が秘めている美しいDNAを感じてもらえれば、幸いだ。
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