ひんやりとした秋風に金木犀の匂いが漂い始める頃、私は、無性に和服を着たくなる。
“日本酒を嗜む時には、できるだけ着物で”と心していながら、いかんせん生来の汗っかきだけに、春や夏は体にまとわりつく襦袢が苦手で、秋から冬は待ち遠しい季節なのだ。
近頃は若い男性が“デザイナーズ着物”という奇天烈な色柄の和服をまとっている姿を見かけることもあるけど、私の着物趣味はいたってトラディショナルだ。
一番のお気に入りは、素朴な風合いと渋みが光る藍染の大島紬(つむぎ)。たまには気取って、銀鼠色の光沢が美しい正絹(しょうけん)を羽織ってみたりする。
どちらかと言えば絹よりも紬が好きな私は、茨城県名産の結城紬にも目がない。
しかし、それらの有名な反物たちの陰で、最近、新潟に暮らしている内に、ひっそり息づいてきた無冠の帝王な和服を発見した。
“小千谷ちぢみ”と呼ばれる、麻の衣だ。
「新潟県なのに麻なんて、寒くないの?」と首をかしげる人も多いだろうが、夏場は日本海側特有のフェーン現象って奴のせいで、かなり湿度が高くなる。
関西育ちの私は、新潟に移り住む前「なんの! 大阪や京都の蒸し暑さに比べりゃ大したことはないだろう」と高を括っていたけれど、猛烈な湿気に汗っかきの本領を発揮して、夜な夜な水風呂を浴びなきゃ寝つけない毎日だ。
そんな折、小千谷にいる友人から送られたのが、小千谷ちぢみの作務衣だった。
サラリとした感触、涼しげな風合いは、暑い夏をしのぐのに格好の素材。その昔は、江戸の旦那衆に持てはやされ、上方の大坂や京都では正絹や紬にも優る逸品の服地として重用されていたそうだ。ちなみに、今日ではジャケットやブラウスなどにも応用され、新潟県の名産品になっている。
薄い生地は苧麻(ちょま)と呼ばれる植物から紡いだ細い糸で作るんだけど、これを開発した無冠帝な人物は、なんと私と同じ関西人だった。
寛文年間(1661~1673)に、明石(現在の兵庫県明石市)の浪人だった堀 次郎将俊という人物が小千谷にやって来て、古くからの地元の織り方を改良し、小千谷縮が生まれたそうだ。
「さすがは、商売上手な関西人!」と溜飲を下げつつ、私はふと思った。どうして温暖な瀬戸内の明石に暮らしていた堀 次郎将俊が、雪に閉ざされる小千谷へやって来たのか?  
謎めいていることばかりだ。
関西から小千谷へ来る方法に、どう考えても歩き旅はあり得ない。当時は、北国街道が整ってなかった。ちなみに、堀氏が到着した頃、角倉了以という京都の豪商がようやく「東回り航路」「西回り航路」を完成させている。
つまり、明石の湊から西回り航路で新潟の柏崎湊に着いて、峠を越えて山間部の小千谷にやって来たにちがいないのである。
じゃあ、何のために来たのか? しかも堀 次郎は、武士である。
元・播麿明石藩士だった堀 次郎将俊は、当時、浪人だった。放浪の果てに小千谷の庄屋・西牧 彦治衛門宅に草鞋を脱いで、地元の人たちに読み書きを教えていた。そんなある日、この地方で織られている麻布を、夏の衣料に改良することを思いついたと伝わっている。
泰平の世が始まったばかりの頃に浪人ってわけは、御家取り潰しの憂き目に遭ってしまったか、凶状持ちとして逃亡するぐらいしか考えつかない。
しかし、そんな悪事に手を染めるような侍が人に読み書きを教えたり、手間ひまのかかる衣服の改良など、しようはずはない……私の作家としての虫は、ムズムズとうずいた。
真面目な学究肌の堀氏は、同僚と激論の末、罠にはめられ失脚し、明石を捨て妻子を捨てて、落魄した心で廻船に乗り込んだ。まさに自暴自棄、死に場所を選ぶ旅だったのかも知れない。
生きることに迷いつつ、渡航金が尽きたのは柏崎の泊。死に切れないまま、そこで金の稼ぎ口を捜し、柏崎の湊に来ていた庄屋・西牧 彦治工門に情けをかけられ、小千谷の地に暮らすこととなった……などと秋の夜長に無冠帝の一杯をかたむけながら、勝手な空想を巡らせているこの頃なのだ。
11月には雪迎え、もうそこまで越後の冬はやって来ている。
実は、小千谷ちぢみには、シンシンと積もった雪に生地をさらす“雪晒し”という技術が欠かせない。
西国から流浪しながらも、雪国ならではのその技を見出した堀 次郎に、私はただならぬ無冠帝イズムを感じるのである。