日本酒好きの読者なら、「ちろり」をご存知だろう。お燗酒をつける銀色のカップのような物で、テレビ番組で鉢巻きをしたおでん屋台のオヤジがよく使う、あの典型的な酒の器だ。
ちろりは熱伝導が早いのが魅力で、お手軽なアルミ製から高価な銅、錫(すず)で造られた物までいろいろある。
かくいう僕も錫(すず)製のちろりを持っていて、お燗をつけるだけでなく、夏の冷酒にも愛用している。氷水でこいつを冷やせば、すぐに酒がヒンヤリするのだ。
「だけど、アルミ製だって熱効率はいいんじゃないの? 贅沢なヤツだな」とおっしゃるあなた、これがワケアリなんです。
実は、錫の鉱石は水の味を良くする不思議な力を持っているらしい。科学的な根拠やデータは無いのだが、この噂はどうやら本当みたいだ。
ボクはかつて全国各地の蔵元を取材していたが、子どもの頃から戦国時代の歴史に興味があったことで、取材先の城跡をくまなく訪れた。その一つに、名城と称えられる「熊本城」があった。
城造りの達人・加藤清正が建てた難攻不落の巨城で、途方もないスケールの敷地や「武者返し」と呼ばれるそっくり返った石垣に唖然として立ちすくんでいた。
櫓の前には、籠城用の大きな井戸が残っていた。その圧巻のサイズに、ガイドさんが話す「数千人の兵士の飲用水です」との解説に合点はいったのだが、驚いたのは、水が傷まないように錫の鉱石を投げ込んでいたことだった。いわば、浄水器のような役割を果たしていたわけだ。
聞けば、当時の城の多くが、同じように錫を井戸に放り込んでいたのである。
そんな魅力を現代まで伝えているちろりは、極めて実用的かつ機能性に富んだ無冠の帝王なのだ。
その一方で、美しさだけを取り入れた無冠帝な「チロリ」もあった。今、僕が「ちろり」を「チロリ」とカタカナに変えた理由も、そこにある。
長崎を取材した日のこと。思案橋近くの商店街を徘徊していた僕の目を、ブルーの光が奪った。アラビアンナイトに登場するランプのような形で、それでいて正倉院の宝物のような瑠璃色の水差し……なんなんだ? この長い注ぎ口は? と陳列棚の前で眉をしかめていると、ご店主らしき人が顔を覗かせて言った。
「珍しいでしょ。それ『長崎チロリ』って言います。ギヤマン製の酒器なんですよ」
ギヤマンってのは、戦国時代から江戸時代にかけて南蛮交易で輸入されていたオランダ製のガラス器のことだ。
例えば、江戸期の浮世絵師・喜多川歌麿が描いた「ビードロを吹く女」で、あの口にしているポッペンと呼ばれるガラスのおもちゃも、ギヤマン製品だ。
な~るほど! 長崎チロリの瑠璃色のボディーとエキゾティックな形は、西洋から東洋へシルクロードを辿ってやって来たにちがいないと僕は気づいた。
きっと異国情緒が漂う長崎の卓袱料理に、この長崎チロリを使えば、いっそう美味しく感じるはず。
「こいつで酒を飲むと、長崎の歴史ロマンを味わえますよ。お一つ、いかがですか」
二百年あまりもその陶器店を営んでいるというご店主は、瑠璃色の長崎チロリに吸い込まれそうな顔をしている僕に、ニンマリと笑った。
その数日後、僕の自宅の書斎には、銀色に光る錫のちろりの横で、瑠璃色の長崎チロリが佇んでいた。
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