冬の訪れを前にしながらも、来年は雪かきをしなくていいんだなぁとニンマリしている。
「え~? 今年の新潟はものスゴイ大雪だったし、また年明けも多いんじゃないの?」とご心配いただく声はありがたいんだけど、実は僕、しばらく大阪へ戻ることになったのだ。
菊水酒造の仕事で、関西での市場開発という特命マーケッターの任務を背負い、晩秋の浪速の街に戻ってきた!と思ったら、これが連日、メッチャ暑い!(いきなり、大阪弁にもどってしまう)のである。
10月下旬というのに、ここ数日の関西の最高気温は28℃前後。僕が若かった20年前とかの大阪だと、これは9月中旬の気候でんがな!! 半袖シャツでも、まだイケまっせ~? なんか亜熱帯みたいで、気色悪いなぁ。
まあ、そんでも30年暮らした大阪弁をひさびさで耳にすると、雪国・新潟の暮らしの中で眠ってた“上方男(かみがたおとこ)”のDNAが騒ぎ出し、今日は道頓堀で立ち飲み屋、明日は祇園で小料理屋と、うまいもんとええ酒欲しさにジっとしておれまへん(笑)。
先日も、久しぶりに灘五郷(なだごごう)の一つ・西宮(にしのみや)市の酒蔵通りをめぐってきた。ここは日本屈指の大手酒造メーカーがひしめく町で、皆さんがテレビCMでよく見てる「○鶴」、「□鹿」「△正宗」って酒蔵も灘五郷にある。
この一帯の酒の仕込み水を「宮水(みやみず)」と呼んできたことは、日本酒ファンの読者なら言わずもがな、ご存知のはず。
蛇足ついでに、灘五郷とは、兵庫県の沿岸部に点在する5つの酒造りの本場で、今津郷(いまづごう/西宮市東部)、西宮郷(にしのみやごう/西宮市西部)、魚崎郷(うおざきごう/神戸市東灘区魚崎)、御影郷(みかげごう/神戸市東灘区御影)、そして神戸市近くの西郷(にしごう)となっているけど、江戸時代は現在の西宮郷よりも、お隣の今津郷の方が大いに発展していた。
当時、春が来て太平洋が穏やかになると、今津の湊からは酒樽を積んだ樽廻船がひっきりなしに江戸に向けて旅立ち、入れ替わるように関東の産物を積んだ菱垣廻船が連日のように戻って来た。沖には船の帆柱が林のように並んでいたらしく、早朝から夕刻まで、今津の湊は渋滞していた。
その歴史の証人のような無冠の帝王に、僕は久しぶりに再会してきたのだ。
「今津の灯台」である。
今じゃ、全国各地の灯台は金属やコンクリートで固めた頑丈な構造だけど、そんな技術がなかった江戸時代は木製の灯台しか作れなかった。しかも油で火を灯す、いわゆる行灯(あんどん)型で、今津灯台は身の丈6メートルの大型サイズだ。
余談ながら、当時の日本人が行灯に使った油は2種類あって、江戸などの関東では荏胡麻油(えごまあぶら/ゴマ油類)、関西では菜種油(なたねあぶら/サラダ油類)となっていて、理由はどちらも地元の量産品で油を作っていたから。
おもしろいことに、天麩羅を揚げる油もいまだに東京の名店ではゴマ油、関西の名店ではナタネ油と分かれているのは、この名残なのだ。
ちなみに、司馬遼太郎先生の作品で豪商・高田屋嘉兵衛を描いた小説「菜の花の沖」の題名は、灘五郷一帯に果てしなく咲きほころんでいた菜の花畑を明石海峡から眺めた風景がモチーフ。だから、関西はナタネ油なのだ。
さて、6メートルもの今津灯台に明かりを上げるために、当時の人たちは油と火芯の入った大皿を毎日滑車で引き上げた。その後、明治時代になると西洋からロウソクの製造技術が持ち込まれ、大きな百目ロウソクに変わった……と歴史を紐解きながら、はっと僕は、もう一つの智恵に気づいた。
ロウソクを使うにしたって、強い海風や横殴りの雨は灯台の敵だったはず。
では、どうやってそれを防いだのか……これまた、油なのだ。
灯台の明かり窓に貼っている和紙にたっぷり油をしみこませることで、雨を弾き、破れず、風もさえぎる。今津灯台のみならず、明かりを守り継いでいった先人たちも、したたかな智恵を持つ無冠の帝王だったのだ。
久しぶりに、威風堂々・質実剛健とした灯台の佇まいを見上げながら、僕の上方男DNAがワクワクさわぎ出していた。
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