先日、広島県の福山市を旅した。
幕末維新の福山藩をからめた時代小説を執筆するため、久しぶりの取材旅行に出発! 目的地は「鞆の浦(とものうら)」と呼ばれている瀬戸内海に面した港町だ。
梅雨の晴れ間、鞆の浦はまばゆく光る凪の海を広げていた。切り立った崖に囲まれる入り江の町で、そよぐ潮風がやけに優しかった。

昼下がりの漁港では、談笑する老齢な漁師さんたちのそばで、カモメやサギといった野鳥がのんびりと日向ぼっこをしている。のどかな波止場の空気が、都会人の疲れを癒してくれた。

そんな町の歴史を紐といてみると、なんと万葉集にも登場するほどの名所で、いにしえの時代から、波待ち、風待ちをする瀬戸内海航路の重要な港として栄えていた。 つまり、江戸時代には大坂から下関を経て、日本海沿いの港へ寄港しながら北海道の松前に辿り着く西廻り航路の中継地だったのだ。
当時をほうふつとさせる大きな石造りの灯台が、港の突堤に立っていた。その脇には、ガンギと呼ばれる乗船用の石段も、昔日の姿のまま残されている。
「おそらく広島の地酒も、この港から船に積まれて上方(かみがた)へ運ばれてたのかも」とボクはひとりごち、そのガンギから酒樽を積み出す艀(はしけ)や、ふんどし姿の沖中士(おきなかし)たちの姿を妄想しながら、ふと、一枚の古びた木製看板に視線を奪われた。

かつての繁栄を偲ばせる、豪奢な屋敷と土蔵が建っていた。
蔵元でもやってたのだろうか、その紅殻格子の店頭に「保命酒」と彫られた伽羅色の看板がぶら下っていた。

「保命酒……なんて、読むのかな。ほめいしゅ? ほめいざけ?」
首をかしげているボクの肩越しに「ほうめいしゅ、ちゅう名前じゃ」と、しゃがれた声が聞こえた。
振り向くと、漁協マークの入った帽子をあみだにかぶる親爺さんが、半分欠けた前歯を覗かせながら笑っていた。
「そいつは、薬酒(くすりざけ)じゃけぇ。普通の酒とはちがうんよ。こっち来て、飲んでみんさい」 人の良さげな親爺さんはボクに返事させる間も与えず、さっさと蔵元の玄関へ入って行き、店先に置いてある酒瓶と盃を断りもなく手にした。 そして、「おいおい!」とドギマギしているボクの鼻先に、その褐色の液体を差し出した。
「……あっ! これ、なんか懐かしい匂いだなぁ」 つぶやくボクに、親爺さんは「子どもの頃、あんたの父ちゃんや母ちゃんは、“陶●酒”や“養●酒”って健康酒を飲んでなかったかね?」と訊ねた。

そうなのだ! あの頃、ボクの家にあった健康酒の味とソックリで、それらのルーツが保命酒なのだと親爺さんは教えてくれた。
保命酒は江戸幕府から専売を認められていた薬酒で、万治2年(1659)大坂の医師・中村利時が研究開発したもの。16種類の薬草を使っていて、病中病後の回復や滋養強壮に使われた。
ところが明治時代になると規制が緩和され、誰でも薬酒を作れることになり、前述の“陶●酒”や“養●酒”が登場したそうだ。

それにしても幕府に専売を認めさせるなんて、中村利時なる人物は、きっと無冠帝なお医者さんだったにちがいない。
「あんた、ペリーって知っとろう? 浦賀に黒船でやって来た、あのアメリカの司令官じゃ。彼らが日本に来た時の宴会には、この保命酒を使うたんじゃ。それに、坂本龍馬のおった海援隊も、飲んじょったらしい」

保命酒にちょっと酔ってきたのか、親爺さんはドヤ顔で自慢話を続けた。 龍馬たち海援隊は、土佐藩の“いろは丸”という船を借りて海運業を始めていた。しかし瀬戸内海を航行中、紀州藩の帆船と衝突し、あえなく沈没。海援隊士と紀州藩氏は鞆の浦へ上陸し、事故の訴訟について会談したのだ。

すったもんだの末、龍馬はまんまと巨額の賠償金を手に入れることに成功! 
その祝杯も保命酒で満たされたにちがいないと、親爺さんはうれしげに語った。
「それにしても、物知りの漁師さんですね~」 「そりゃぁ、10年も毎日同じ話をしとりゃ、ソラで言えるじゃろ! わっはっは~」
訊けば、朝の漁を終えたら、昼からはボランティアで観光ガイドをやっているそうな。
う~む! 無冠帝な保命酒を愛する親爺さんも、無冠帝だった。