さて、今宵の無冠帝の一杯は、どんな肴と楽しもうかな……家路をたどる僕の視線が、通りの寿司屋の格子戸を飾るポスターに止まった。
「新潟県 寿司ざんまい 極み」の大きなキャッチフレーズ。その豪華な握り寿司十貫の盛り合わせ写真に、思わず垂涎してしまうのは僕だけじゃなかろう。なにせキトキトの日本海ネタと、日本一のつやつやコシヒカリで作る絶品の寿司である。美味しさはもちろん、新潟県に暮らす優越感もたっぷり味わえる。
まんまと寿司屋の術中にはまった僕は、吸い寄せられるように寿司折を買い、無冠帝との食卓を想ってニヤけるのだった。
 ところで、僕は物心ついた頃から寿司に目がない。と言うか、それは読者の誰もが異口同音することだろうし、およそ日本人で「寿司が嫌い」という人には、お目にかかったことがない。しいて言えば中学時代、寿司屋の息子だった親友だけは、家に染み込んでいる生魚と酢の匂いにウンザリしていたのを憶えている。まことに、贅沢な悩みですな。
 四国の海沿いの町に生まれた僕は、瀬戸内海のタイやヒラメなどの白身魚の寿司で育ち、食い倒れの町・大阪で働き始めるとサバのバッテラ寿司、アナゴの押し寿司をたらふく楽しんだ。さらに全国の旅と酒をジャーナルして各地の名店で舌鼓を打ったせいか、いささか寿司にうるさいオヤジになっている。
そんな日々の中、どこの店でも掲げている暖簾の染め抜き文字に、素朴な疑問を抱いていた。
「当たり前に書いてるけど、今さらながら、江戸前寿司って何なんだ?」
 博多だろうが札幌だろうが、はたまた沖縄の那覇だろうが、繁華街の至るところで「江戸前寿司」のネオン看板が目に飛び込んでくる。
誰しも「その店の創業者や先人たちが、東京で江戸前寿司を修行したんだろうよ」と片付けてしまうのが常だけど、実はもっと単純明快で、なるほど! な所以があった。
“江戸前=江戸の前の海(東京湾)で獲れた魚介類を使う”ってことなのだ。
 ちなみに江戸前の蒲焼は、「江戸城の御堀で獲れたウナギに限る」と言われたそうな。

最盛期には、人口200万人にも及んだ江戸の町。庶民は早朝から忙しく働き、昼どきになると、すきっ腹を満たす蕎麦の屋台や“棒手振り(ぼてふり)”と呼ばれる天秤棒をかついだ物売りが街角にやって来た。
特に江戸中期は、庶民の四人に三人がガテンな大工職という時代。彼らの行列が露店商人を取り囲み、さながら人気ファーストフード店のようだったにちがいない。
それを商機と登場したのが、握り寿司だった。
別名「早寿司(はやずし)」と呼ばれる屋台寿司で、ブームの火つけ役は無冠帝な男・華屋與兵衛(はなや よへい)。文政7年(1824)に一軒目の屋台を始めるや、與兵衛の寿司屋台はまたたく間に江戸の町へ広がっていった。
華屋の屋台は、いわゆるコンビニチェーンに似たフランチャイズのような組織で、やり手商人のアイデアは今も昔もさして変わりないことに、日本人特有のDNAを実感してしまう。
早寿司は、現代の握り寿司に比べるとひと回り大きい“おにぎり”サイズだった。手早
くガッツリ食べて昼仕事に取りかかりたい気短な八っつあんや熊さんには、もってこいだったにちがいない。
さらに與兵衛のユニークなところは、他の寿司屋と差別化するために、粋なネタの見せ方や凝った味付けを工夫したことだ。例えば、僕の大好きな「海老おぼろ」の箱寿司、トロリとした煮きり醤油をたっぷり塗った「煮ハマ(はまぐり)」などが、今も受け継がれる華屋の技だ。
目にも美味しいアートな職人技に、思わず「イイ仕事してますねぇ」と感嘆し、当時の庶民の方がよっぽど食道楽だったと羨んでしまう。
華屋はどんどん寿司に改良を重ねて、競い合う他の寿司屋と味比べ、技比べも催した。これも現在のコンペティションと同じで、與兵衛は名実ともに、江戸のグルメ王となりつつあった。
ところが、ドンデン返しが待っていた。その後、天保の改革が始まると、贅沢ざんまいな風潮を広げる華屋の寿司に御上からお咎めが起こり、なんと與兵衛は投獄される羽目に。
どうにか釈放されたものの、すでに華屋の人気は落日の気配。ところが無冠帝の危機は、やっぱり無冠帝が救うことになっていた。
飢饉が頻発し、質素倹約が奨められた天保時代、庶民の口過ごしは日毎に貧しくなっていた。與兵衛はこんな時こそ、もっと安くてうまい寿司を生み出さねばと、再起を誓ったのだ。
そんな與兵衛に呼応するかのように、偶然、彼の前に現れたのが「粕酢(かすず)」だった。酒粕から造るので米酢よりも安くて、まったりとしたコクがあり黄金色に輝く粕酢に、與兵衛は新しい寿司トレンドを閃いたのかも知れない。
粕酢でしめた酢飯の味わいに、華屋の人気は再燃したわけだが、この粕酢の仕掛け人・中埜 又左衛門(なかの またざえもん)も、かなり無冠帝な人物だった。
彼は三河半田(愛知県半田市)の造り酒屋で、いわば産業廃棄物だった酒粕から酢を作ることを思いついた。ちなみに彼の子孫は、世界中の人たちが口にしている我が国屈指の調味料メーカー“ミツカン酢”なのだ。
当時の三河酒は灘酒に圧倒され、江戸に持ち込まれるのは灘の新酒が売り切れる初夏の頃。いわば“二番手の酒”で、品質は極上なのに人気も価格も灘酒に及ばなかった。
つまり、無冠帝な酒だったのだ。
そこで起死回生の一打を粕酢に賭けたのが、中埜 又左衛門だった。
江戸へ酒を売り込みに通っていた又左衛門は、偶然、華屋の早寿司を頬張りながら、はたと粕酢を閃いた。そして、無冠帝な男同士は必然のように出会い、ここから日本の握り寿司文化が花開くのである。
日本の食文化に一大レボリューションを巻き起こした、早寿司……僕もあなたも、幸せな握り寿司との一杯を楽しめるのは、そんな二人の無冠帝のお陰なのだ。