1月17日が、やって来た。
関西で暮らす僕にとって、忘れられない日。あの阪神淡路大震災が発生したのは、17年前の今朝だった。

大阪にありながら猛烈な揺れに襲われた我が家は、タンスが横っ飛びし、食器棚の器という器がすべて砕け散った。むろん、柱にしがみつくだけの僕と家族は、揺れがおさまった後の室内の惨状を呆然として見つめていた。

はっと気を取り戻した妻がテレビのスウィッチを入れると、細い黒煙が立ち昇る神戸の町が映し出され、僕は息を呑んでしまった。実は、この前日に蔵元取材のために神戸を訪れていたのだ。地震が発生したその日も、引き続き東灘区の酒蔵へ向かう予定だった。
訪問した酒蔵の安否が気になってしかたなく、電話をかけてみたが、いっこうにつながらなかった。思えば、あの時に初めて携帯電話は混線するという事実を知ったのだった。 続々とテレビに映し出される被災地の光景・・・・・・しかし、蔵元の情報はまったく伝わってこなかった。

それから一週間後、ようやく交通封鎖が解除され、逸る気持ちを抑えながら僕は神戸の町へ向かった。
車窓から臨む、目を覆いたくなるような爪痕。瓦礫と化した町並みや遥か先まで崩れ落ちた建物や高速道路を見つめながら、僕は無性に腹が立って、涙がとめどなくあふれた。 そうして行き着いたのは、神戸市役所前の公園だった。

市役所に行けば蔵元の情報が判るのではと思ったが、避難者が殺到して足の踏み場もなかった。
広い公園には、すでに避難所が設けられていた。 焚き火を囲む大人たちの表情は疲労の色が濃かったが、白い息を弾ませて走り回る子どもたちの声が響いて、一瞬だけど、胸を撫で下ろした。
子どもたちの駆けて行く先に、色鮮やかな一画が残っていた。僕はなにげなく気を引かれて歩み寄ると「花時計」だった。

花時計は神戸の隠れたシンボルで、僕が学生時代から親しんでいた無冠帝な存在だった。
愕然としたのは、震災が起きた午前5時46分を指したまま、時計の針は止まっていた。 そのシーンは時計の尖った針先のように僕の胸に刺さったが、ふと聞こえた愛らしい声が僕の苦刻をかき消した。

「あれは、なんの花?」「これは、なんていう名前やのん?」
母親に屈託のない笑顔で訊ねる少年、それにひとつひとつ答えてあげる親子の姿がほほえましかった。
その日から僕は幾度となく神戸市役所へ蔵元の情報を得るために通い、この花時計に親しみ、多くの人たちが美しく咲く花時計に涙する姿を目にしていた。

そして17年の時を経た今日も、無冠の花時計は神戸の人々をやさしく見守り続けている。