- 桜の季節がやって来ると、なぜか日本人はそわそわして落ち着きがない。-
とある外国誌に、日本人のネイティビティーを批評していた。
そう言われると、思い当たる節がある読者の方、けっこう多いのじゃないだろうか。
もっとも僕の場合は、食い気ばかりが春爛漫! 桜鯛、桜海老、桜餅、桜漬け、もひとつオマケに桜酒である。
そしてお花見前線が北上すると、いつもながら「やっぱり、日本酒だねぇ~」と嬉しい声がひっきりなしに聞こえてくる。
その言葉を発するDNAが、僕たち現代人に失われることなく生きているのは喜ばしいこと。だけど、どうしてなんだろう? とたわいもない疑問を抱いた時期があった。
あれこれと推察・洞察・検証しているうちに、「お江戸の一番酒」というキーワードに辿り着いた。
江戸時代、春になって太平洋が穏やかになってくると、樽廻船と呼ばれる酒樽専用の千石船が大坂から江戸の日本橋・新川(今の都内中央区日本橋界隈)を目指してやって来た。
この大型帆船はいったん江戸湾に碇を下ろし、酒樽を積み替えた艀が日本橋川を遡ったわけだ。
実は、日常物資用の菱垣(ひがき)廻船の場合、大坂を出航して途中、熱田湊(今の名古屋)や焼津湊などいくつもの泊りに寄航しながら、江戸までひと月余りもかかった。
ところが、美味しい上方(かみがた/関西)の新酒に飢えている江戸庶民はそれを許さず、ノンストップの直行便をせがんだ。
「こちとら江戸っ子でぇ、気が短けぇんだ! とっとと持って来やがれぃ」てなもんで、おかげで灘の新酒は飛ぶように売れ、「下り酒(くだりざけ)」と称賛されたわけだ。
余談ながら「くだらないねぇ」の語源は、この下り物=上等の物という通念から生まれたそうな。
ついでに、お祭り騒ぎが大好きな江戸っ子は、最初に到着する樽廻船を当てる富くじ(今の宝くじ)を流行らせた。一等賞は、小判の山 + 酒樽一年分と、数百年を経た今日の懸賞キャンペーンよりも豪勢なのである。
つまるところ、そんな一番酒の季節を待ちわびた江戸っ子たちの血の気が現代人のDNAにも残っているから、やっぱり桜のシーズンにはそわそわと日本酒が欲しくなるのかも。
ところで樽廻船は、大坂~江戸までたった7日というスゴイ記録が残っているそうだ。
難破事故が多発していた当時、潮目を読み切る技量と風まかせと覚悟する度量が、勝負を決めた。つまり、達人の船頭や水夫がいればこその偉業だった。
一番酒の船頭は、民衆に英雄として称えられ、まさに無冠の帝王だったろう。
彼らの多くは、いわゆる“水軍(海賊)”の末裔が多く、その一族の誇りを賭けて江戸までの腕を競ったそうである
そんな集団の一つに、僕の出身地である讃岐海賊の子孫がいた。
「塩飽(しわく)水軍」という名を聞いたことが、あるだろうか?
彼らは瀬戸内海の島々を根城に、古くは源平合戦の頃、海の戦闘部隊として歴史に登場している。さらに東シナ海まで疾駆し、戦国の動乱期は海賊として生き、太平の世が訪れると貿易船・廻船の水夫集団や大漁船団に変わっていった。
むしろ瀬戸内海は波穏やかな海だから、荒波のたうつ太平洋の水先案内は苦手じゃないかと察していたのに、どっこい塩飽水軍は今のフィリピンなど東南アジアへも進出していたツワモノの海人だった。
考えてみれば、酒だけでなく当時のいろんな物資は、廻船という驚異的なスピード革命によって日本国内を流通することになったわけだが、その立役者とは東西航路を開拓した角倉了以じゃなく、高田屋嘉兵衛や紀伊国屋文左衛門といった海運商でもなく、巧みに舵を操った“Pirates of 無冠帝”と僕は思うのである。
今ひとつ、塩飽水軍の自慢話をしたい。
徳川300年の治世が崩壊しつつあった幕末、全国諸藩の軍隊は弱体化し、必然、水軍たちの必要がなくなって帰漁生活を余儀なくされた。
そんな中、徳川家から塩飽水軍に白羽の矢が立つ。
1860年(万延元年)、アメリカへ初めて渡る軍艦「咸臨丸」の艦長・勝 海舟から航海の腕を買われ、35名の塩飽出身の水夫が乗船したのである。
さらには2年後、幕府は航海技術の研究に初めてオランダへ16名の留学生を派遣。あの榎本武揚や西 周(にし あまね)に交じって、塩飽出身の古川庄八が選ばれている。
錚々たるメンバーの中、彼の風貌は荒々しく個性的だったが「粗野ではあれども、野卑ではない」と伝わっていて、その度胸の良さは、あたかも戦国期の海賊頭を彷彿とさせるものだったそうである。
「春の海 ひねもす のたりのたりかな」
のどかな一節を口にしながら、太平洋上の庄八はうまい盃をあおっていたかも……桜の美しさのみならず、往時の海賊ロマンに想いをはせてみるのも無冠帝ファンの酔狂。
春の凪がやって来るたび、僕の血も、俄然騒ぐのだ。