──越後平野の北部に位置する新発田市は、江戸時代には10万石の城下町として栄え、現在では、県内でも有数のコシヒカリの産地として知られている。そのような環境の中で育った三田村さんは、俳優になるために、18歳でこの町を後にした。

「どうして俳優になりたいと思ったのか、その記憶もないぐらい小さな頃から、将来は俳優になろうと決めてました。ただ、僕の実家は新潟県で15代続く地主で、親父が子供の頃には、兄弟のひとりひとりにお手伝いさんがついていたっていうような家でね。父親と話すときは正座。食事は親父が箸をつけてからでないと食べられない。そういう封建的な家庭でしたから、俳優になりたいだなんて、とてもとても、言えませんでした。だから、中学2年生のときに、どうやって東京に行って俳優を目指すかというシナリオを作って(笑)。その通りに行動して、高校2年の夏休みに『大学の下見に行く』と親に嘘をついて、東京で劇団を見て歩いて、だいたいの目星をつけましてね。大学受験のときは、わざと白紙の答案を提出して不合格になり、『進学率の高い東京の予備校へ行きたい』というのを理由に2~3か月かけて親を説得して、高校卒業と同時に、どうにか上京するところまでこぎつけたんですよ」

──当然のように予備校には1日も通わず、建設現場でアルバイトをしながら、まずは劇団員になることを目指していた。


「文学座の入団テストに2年連続で落ちて、20歳のとき、劇団青俳に入ることができたんですね。当時は、家賃5,000円、3畳一間の暮らしで、アルバイトをしながら役者もやって、という生活です。劇団を見まわしても、役者だけで食えている人はほんの一握りで、有名な人以外はみんなアルバイトをしながら年2回の本公演に参加する、というのがスタンダードですから、その生活に焦りや不安はまったくなかったですよね」

──どんな形であれ、芝居ができればいい。たとえ本心からそう思っていたとしても、名もなき新人俳優に主演映画の話が舞い込んできたら、たいていの人は、すぐ飛びつくにちがいない。しかし、三田村さんは、違っていた。

「台本を読んでつまらなかったので、その話を断ったんです。劇団の大先輩である蜷川幸雄さんには『お前、馬鹿じゃねえか』って言われましたけど(笑)」
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